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第72話 慎吾の訪問

Author: 釜瑪秋摩
last update Last Updated: 2025-09-02 20:21:06

 朝霞邸の玄関に、聞き慣れない足音が響いたのは、契約解除の儀式から二日が過ぎた夕刻のことだった。

「真壁慎吾様がお見えです」

 華の知らせに、私は胸の奥で小さく息を呑んだ。理玖と真の夫婦になると決めてから、いつかこの時が来ることは分かっていた。それでも、実際に慎吾と向き合うとなると、心は複雑に揺れる。

「お通ししてください」

 私は襟を正し、座敷へと向かった。障子の向こうから差し込む夕日が、畳に長い影を落としている。やがて襖が開き、慎吾が姿を現した。

 朧月会の制服ではなく、質素な紬の着物に袴。その表情は、かつてのような激しい敵意ではなく、深い疲労と諦めに似た静けさを湛えていた。

「鈴凪さん、お久しぶりです」

 慎吾は畳に正座すると、まっすぐに私を見つめた。

「お久しぶりです、慎吾さん」

 私も正座し、丁寧に頭を下げる。二人の間に流れる空気は、以前とはまったく違っていた。敵対でもなく、昔の親しさでもない。ただ、互いを理解しようとする静かな意志だけがそこにあった。

「君は……元気そうですね」

 慎吾の声は、どこか安堵を含んでいる。

「おかげさまで。慎吾さんは……ずいぶんとお疲れのようですが」

「ええ」

 慎吾は苦い笑みを浮かべた。

「朧月会の後始末に追われています。今日は、その件で来たのです」

 私は静かに頷く。理玖が迦具土を退けた後、朧月会内部では激しい議論が続いていることを、華から聞いていた。

「まずは…&helli

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